福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568~1623)の兜です。兜の両脇の金色の角は,水牛の角を形どっています。長政の兜として有名な「一の谷兜」とともに,重要文化財に指定されています。
兜の正面に金色の丸い飾りがついた大水牛脇立兜と比べると,両脇の角が細く,シャープな印象です。
*大福岡城展(10月8日~11月29日)で展示予定
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福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568~1623)の兜です。兜の両脇の金色の角は,水牛の角を形どっています。長政の兜として有名な「一の谷兜」とともに,重要文化財に指定されています。
兜の正面に金色の丸い飾りがついた大水牛脇立兜と比べると,両脇の角が細く,シャープな印象です。
*大福岡城展(10月8日~11月29日)で展示予定
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福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568~1623)の兜です。兜の両脇の金色の角は,水牛の角をかたどっています。長政の兜として有名な「一の谷兜」とともに,重要文化財に指定されています。
兜の本体,ヘルメットの部分が桃の形ににているので「桃形」兜と呼ばれます。
*大福岡城展(10月8日~11月29日)で展示予定
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甲冑にみる江戸時代展2 大水牛と桃形の系譜(平成16年7月21日~9月20日)(福岡市博物館ホームページ)
福岡藩主だった黒田家の陪臣(家臣の家臣)の家に伝えられた鎧兜です。戦国時代(16世紀)のものだと考えられます。
兜の上には,鬼瓦を形どった飾りがついています。鬼瓦は,魔よけとして屋根の棟の両端に掲げられました。魔物を退けるために恐ろしい鬼の顔になっています。戦場で,敵を威嚇し,自らを守る「護符」となってくれることも願ったデザインなのかもしれません。
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大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年放送)でお馴染み,黒田官兵衛(孝高,如水 1546~1604)の鎧兜です。官兵衛は,福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568~1623)の父です。 兜は,朱塗りの杯を伏せた形です。
鎧は,官兵衛が使ったものと伝えられていますが,兜は,三代藩主の光之(官兵衛のひ孫 1628~1707)が作らせたものだということです。
*大福岡城展(10月8日~11月29日)で展示予定
冷泉町(福岡市博多区)で発掘された,手のひらサイズの小さな白磁のイヌです。鎌倉時代(13世紀)に中国から輸入されたものだと考えられます。
博多遺跡群で発掘されたほかの出土品と一緒に重要文化財に指定されています。
博多では,多くの中国でつくられた陶磁器が発掘されています。
*福岡市埋蔵文化財センター所蔵資料
*福岡市博物館・常設展示室で展示中
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江戸時代,現在の西公園(福岡市中央区)にあった東照宮の御神体だった東照権現=徳川家康の木像です。1652年に,江戸・寛永寺で開眼,福岡に船で運ばれてきたそうです。明治時代に東照宮が廃されたあと,警固神社(福岡市中央区)に移されました。
この像は,公家の男性の正装である「束帯」という装束を身に着けています。一番上にまとっている黒い袍(ほう)には,よく見ると,徳川家の家紋・三つ葉葵の文様が描かれています。ぜひ,ズームインしてご覧ください。
作者:正木宗七(まさき・そうしち)
生薬や香辛料として使われる丁子(グローブ)を加熱して香りを発散させる香炉の一種です。
正木家は,播磨(現・兵庫県)の出身の瓦師で,黒田長政に従って博多にやってきたと伝えられています。本家は代々瓦師でしたが,分家が釉薬をかけない素焼きの焼き物をつくりはじめ,代々「宗七」を名乗って,明治維新の頃まで6代続きました。彼らがつくっていた素焼き物が「宗七焼」です。
作者:正木宗七(まさき・そうしち)
生薬や香辛料として使われる丁子(グローブ)を加熱して香りを発散させる香炉の一種です。
正木家は,播磨(現・兵庫県)の出身の瓦師で,黒田長政に従って博多にやってきたと伝えられています。本家は代々瓦師でしたが,分家が釉薬をかけない素焼きの焼き物をつくりはじめ,代々「宗七」を名乗って,明治維新の頃まで6代続きました。彼らがつくっていた素焼き物が「宗七焼」です。
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制作年代:大正3年(1914)
※3D画像は画像をクリックすると見ることができます(外部リンク)
名人と名高い人形師・小島與一がつくった博多人形です。
この作品のモデルになったのは,修業時代の若き日の與一が憧れていた博多芸妓です。與一は彼女を料亭の2階に連れ出して,3日間デッサンに打ち込み,この作品を完成させたと伝えられています。この女性・ひろ子は,のちに與一の妻となりました。
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博多人形名品展2 小島与一と原田嘉平(平成23年9月21日~11月6日)(福岡市博物館ホームページ)